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上里町役場で展示会「児玉に飛行場があった」

2008年8月8日 執筆者 : ダニエルさん

籠原にはご存知の通り、航空自衛隊熊谷基地があります。
ここは戦前は陸軍の飛行学校でした。
昭和10年に設立以来、太平洋戦争終戦までの10年間で巣立った操縦者は約1万人、多数の勇士が特別攻撃隊操縦者として散華されたとのことです。
終戦後は米陸軍43師団が約13年間進駐したあとに飛行場の半分は御稜威ヶ原(みいずがはら)開拓組合に委譲、残りは航空自衛隊熊谷基地として発足、現在に至ります。
ちなみに御稜威ヶ原という名前は、昭和13年10月に昭和天皇の御行幸を記念して当時の基地司令が飛行場地区を御稜威ヶ原(みいずがはら)と命名したものです。





そして今回、上里町役場で「児玉に飛行場があった」という展示会を見てきました。
北沢文武氏による「児玉飛行場哀史」をもとにしているようです。
児玉に戦時中に陸軍の訓練用飛行場として造られ、その後「児玉基地」と呼ばれ特攻隊の基地として使用されたそうです。
児玉の工業団地が碁盤の目のようにきちんとなっているのは、飛行場の名残ということです。


飛行場が完成したのは戦局はかなり苦しい昭和19年4月で、飛行訓練生に十分な訓練を施す余裕も無かったようです。
ここに来たのは300人の学徒兵で、通常なら3,4年かかる訓練を4ヶ月で終わらせて実戦配備となりました。
そのうち52人は鹿児島の知覧に配備されました。


訓練生を送り出すと、飛行場は使命を一変させ、激戦地へ食料や兵員を空輸する実線基地となりました。
硫黄島への出撃なども行い、かなりの死傷者を出しました。
しかし支援物資はほとんど友軍の手には届かなかったようです。


児玉飛行場は急いで作られたため、荷物を満載した輸送機や重装備の爆撃機が発着できるだけの滑走路がありませんでした。
しかしそれを作るだけの資材や労働力はもはやありません。
そこで「マガダム式滑走路」を作ることになりました。
これは直径15~20cmくらいの石を敷き並べ、その隙間に砂利を敷き詰めます。
さらにそれを赤土で覆ってローラーで圧迫するものです。
敷き並べる石は神流川などから運ばれ、小学生まで動員されました。


昭和20年5月には48人の隊員が特攻員に任命され、6隊36機の特攻隊が編成されました。
10人の死者を出すほどの過酷な突入訓練後、6月末に4隊24機32名が福岡県太刀洗基地を目指して出発。
しかし故障機が続出したため、なかなか目的地には届きませんでした。
そうこうしているうちに終戦、隊員は命拾いをしました。


終戦時には約80機の飛行機がほぼ無傷で残っていました。
これは本土決戦用に備えていたためです。
その後のクーデターや抗戦活動もありましたが、すぐに鎮圧されました。



このように写真を展示しながら児玉飛行場の歴史が解説されています。
結構な時間を費やしてじっくり見てきました。
普段はなかなか見聞きすることの無い戦争の話です。
事の善悪は別として、国を守るために直接的、間接的に戦った人たちがいます。
その人たちのおかげで今の自分たちがいます。
そのことに感謝と尊敬の念を忘れてはいけないと思います。


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ダニエルさん

肉とジャンクフードをこよなく愛する男。本職は籠原の不動産屋さんです。 【籠原の不動産屋さん】紀ノ国商事株式会社

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